こんばんは、ごった煮です。
国内で旅行に行くときには一応細々と百名城の登城は続けています。
前回の記事はこちらをどうぞ。
熊本城メモ
城の種別:平山城
築城者:加藤清正(54万石)
築城年:慶長12年(1607年)
略歴:
応仁年間(1467年~) 菊池氏一族の出田秀信が千葉城として築城
明応5年(1496年) 肥後国人の鹿子木寂心が入城し新たに隈本城を築城
天正15年(1587年) 佐々成政が肥後一国の領主となり入城
天正16年(1588年) 加藤清正が肥後北半国の領主となり入城、千葉城、隈本城を含む一帯を近世城郭へ改修
寛永9年(1632年) 豊前小倉城主細川忠利が入部、以後、11代に渡り細川氏の居城となる
明治10年(1877年) 西南の役で西郷隆盛に、「加藤清正に負けた」とまで言わしめるほどの堅城ぶりを証明
前日の夜に下見していた清正公銅像の前から見学開始。
西出丸・奉行丸ゾーン
城彩苑駐車場に車を止めて見学スタート。
城彩苑から復興見学ルートの通りに進むと、まず西出丸西南隅を守る未申櫓。
二重三階ながら高さがあるので威圧感あります。
櫓部分は何とか保っていますが、元太鼓櫓にかけての石垣は崩壊したまま。
崩れた塀自体も見えて生々しい。
西大手門の付近からの南大手櫓門も屋根が歪んでいるのが分かります。
復旧中の天守閣を間近に眺められる特別公開ルートがこの日より再開される予定でしたがコロナウィルス感染拡大の影響で延期に。
西出丸の塀に沿って通路が設けられていて、三重五階の宇土櫓がよく見えます。
加藤清正が初代天守として建てたともされ、熊本地震では内部の被害はかなりあったようですが立派な外観はそのまま。
正に慶長伏見地震で太閤秀吉を救出し「地震加藤」と呼ばれた面目躍如。
先日、熊本市より全て解体しての復旧が行われることが発表されました。
西出丸北西隅の戌亥櫓の脇を通って北大手門跡のところに抜けます。
加藤神社の正面に到着。
天守閣ゾーン
加藤神社の前は絶好の写真撮影スポット、大天守と絶賛修復中の小天守。
加藤清正の後、二代藩主となった忠広の代に加藤家が改易されたのは、幕府の体制強化を目論む徳川家の陰謀かな。
加藤神社の境内からは高石垣にそびえる宇土櫓。
高石垣の高さに、現存12天守と比べても高さのある宇土櫓が相まって立派な雄姿です。
戌亥櫓
戌亥櫓の北側空堀は崩落した石垣を間近に見学できるスポットになっています。
櫓を支える隅石垣も凄いですが、ここの空堀の広さも凄い。
昔はもっと深さもあり、加藤清正は「もし攻められてもこの空堀だけで100日は持ちこたえる」と豪語したそうです。
東竹の丸ゾーン
棒庵坂を下り城の東側に。
どの石でも同じではなく、しっかりとした手順があるようなので頭が下がる思いです。
石垣の石一つ一つに附番していくのも気が遠くなるような作業。
東側の急斜面にそびえる十八間櫓を見ながら、熊本大神宮と熊本城稲荷神社にもお参りします。
竹の丸ゾーン
坪井川沿いに出て川沿いの道を歩いていけば、城郭をほぼ一周。
熊本はまだ開花宣言は出ていませんでしたが、気の早いのが咲いていました。
清正公銅像のところに戻ってきました。
行幸橋を渡って馬具櫓を横から、簡単に積み直して治すものじゃないことが改めて分かりました。
築城後は江戸時代の寛永、享保年間や明治時代にも大地震に襲われた熊本城ですが、その度に復興してきたので、今回も無事に復興されること願って、またぜひとも訪れたいと思います。