こんばんは、ごった煮です。
信州の史跡巡りから、典厩寺にほど近い川中島古戦場の紹介です。
ここは昨年、八幡原史跡公園から川中島古戦場史跡公園に名称が変更されました。
前回の記事はこちらをどうぞ。
=目次=
第四次川中島合戦
川中島の戦いは、戦国時代に甲斐の武田と越後の上杉が北信濃の領有を巡って行われた5回に渡る合戦。
そのうち第四次合戦は永禄4年(1561年)、両軍が最大の激戦を行ったとされる八幡原の戦いのことを指します。
妻女山に布陣する上杉軍の背後を衝くべく、高坂弾正、馬場信房率いる武田軍の別動隊が攻撃するももぬけの殻。
深夜のうちに山を下りた政虎公率いる上杉軍本隊と、八幡原に待ち伏せする信玄公率いる武田軍本隊が激闘したというのが合戦の経過となります。
上杉軍は車懸りの布陣で、先鋒は「鉄をも貫く」といわれた柿崎景家。
不意を突かれた武田軍は十二段の鶴翼の陣を敷いて迎え撃ちます。
ただ数で劣るため、典厩信繁公や山本勘助、室住虎光など名立たる武将を失うなど苦戦を強いられました。
川中島の戦いとは - goo Wikipedia (ウィキペディア)
川中島古戦場八幡社
史跡公園に隣接する八幡社の境内に八幡原の戦いの遺構が集まっています。
実際に戦闘が行われたのはここではなく、戦いの後に武田軍が勝鬨を上げ、首実検を行った場所とのこと。
ただ、武田軍が本陣をこの辺りに構えたときに築いた土塁跡が残っています。
土塁の北側は神社本殿が建てられていますが、きれいな桝形陣形跡。
「逆槐」は逆茂木(防御柵)に用いた槐の杭が根づいたもの。
逆槐の並びには「三太刀七太刀の碑」。
甲陽軍鑑では『信玄公に三太刀斬りつけ、軍配には八か所の刀傷』、甲越信戦録では『信玄公は七太刀は軍配団扇で受け止め、二太刀は受けはずした』とあり、三と七は実数ではないようです。
原大隅守が信玄公の持槍である青貝の長柄を取って騎馬武者の馬を刺し、後にそれが政虎公であると知って悔しがったときに突き刺した石が「執念の石」。
「首塚」は高坂弾正が戦場に残された敵味方の遺体を集めて手厚く葬ったものとされます。
現在残っている大きな首塚はここともう1か所徳本塚のみ、他にも数多く建てられていた首塚を壊して田畑にした者は祟りがあったとか。
川中島といえば何と言ってもこの一騎打ち像です。
大河ドラマ「天と地と」の放映を記念して、甲越信戦録の記述を基に建立されました。
八幡社のご朱印
もう3年も前になるのか。